それはあなたですか? ちがいますか?

この記事は約14分で読めます。

宇宙的な恐怖を予感させるタイトルにしました。もしくは警察の取り調べです。

とあるフレンドが読んでいらっしゃる記事を紹介していただきまして, 私もそれを読みに行ったわけです。

『遺伝子の不都合な真実 ─すべての能力は遺伝である』(著:安藤 寿康)を読んだ。
著者自身が語っているように、確かに文系(文学部)そのものの文章だ(笑)。が、遺伝という難しいテーマでありながら、当たり障りなく上手くまとめ、全方位に配慮された内容だと感じた。著者の人柄を感じる。 全体的に異論はなく、私も同じ方向で考えている。 「遺伝か環境か」については、一卵性双生児(遺伝子が100%か同じ)と二卵性双...

読んだときに私は思いました。

「遺伝子」という言葉自体がなんか他人事っぽくありませんか?

どうやら, この筆者:チャーリーさんは遺伝子で人を識別しているご様子。そのようにする理由もまあ予想できるし理解できるのです。でもそれって彼の感想です。完全には彼に賛同できないという人が多いのではないでしょうか。

遺伝子は確かに私を構成してくれている。それでも一言モノ申したくなるこの気持ちは何でしょう。言葉にしてみましょう。

この記事がもたらすもの

  • アイデンティティという言葉が全くピンとこない人でも, その言葉の意味がはっきり分かるようになります
  • 自分のアイデンティティをどのようにとらえたらいいのか, 一つの考え方を提案しましょう

人間のアイデンティティって何?

辞書を引いてみる

この記事を読むにあたってキーワードがありますので一度調べておきます。「アイデンティティ」です。英語の綴りは「identity」です。
いきなり変な横文字使って申し訳ないなと思っているのですが, 冒頭の私の不満を一言で表すのが「あなたのアイデンティティが遺伝子だと言われて納得できますか?」なのです。

アイデンティティ

〘名〙 (identity)

① 他とはっきりと区別される、一人の人間の個性。また、自分がそのような独自性を持った、ほかならぬ自分であるという確信。組織、集団、民族などにも用いる。自己同一性

※「ごっこ」の世界が終ったとき(1970)〈江藤淳〉一「なにをやっても『ごっこ』になってしまうのは、結局戦後の日本人の自己同一性(アイデンティティ)が深刻に混乱しているからである」

② 本人にまちがいないこと。また、身分証明。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3-22669#goog_rewarded

この記事では①の意味で使用することにします……と言いたいところですが

これでも話が抽象的過ぎてわかりにくいですね。この手の用語の解説はなんか難しく話す割には結論がふわっとしているのです。これだったのかという驚きがないのです。困りました。

「アイデンティティ」=「個性」なのでしょうか? 実は違います。というのは個性という言葉の使い方にも意見しなければいけなくなるので, それはまた今度にします。ここで重要なのは個性ではなく「他とはっきり区別される」という方です。

そもそもそんな言葉必要?

私にとって私という人間は「ほかとはっきり区別されている」と認識できているのが普通です。私は私。そんなの説明する必要ないでしょうと。
当たり前で疑問をさしはさむ余地のないものには普通, 名前すら付けないのです。名前を付けるには問題が起きた時に一言でそれを指すことができる言葉があったらいいよねという目的があるはずなのです。

燕が巣を作った学校の窓に名前が付いたという例

例えば中学校で「西棟南側階段の2~3階踊り場にある窓のうち, 校舎内側から見て一番左側の窓」というものがあったとしましょう。これが名前がついていない状態です。そして普通は名前がついていなくても問題ないのです。めったに呼びませんからね。
しかし「西棟南側階段の2~3階踊り場にある窓のうち, 校舎内側から見て一番左側の窓」燕の巣ができたとしましょう。まずは階段の窓掃除の人に注意しなければなりませんね。「西棟南側階段の2~3階踊り場にある窓のうち, 校舎内側から見て一番左側の窓を拭く時にはあまり音をたてないように気をつけましょうね。燕さんをびっくりさせないように」というわけです。そして「西棟南側階段の2~3階踊り場にある窓のうち, 校舎内側から見て一番左側の窓から身を乗り出して燕を見ようとする生徒がいて危ない」と生徒会で問題になり, 「西棟南側階段の2~3階踊り場にある窓のうち, 校舎内側から見て一番左側の窓に注意喚起のためのポスターを張り出そう」美術部に作ってもらおうかな……

このように面倒くさいです!

だから, 普通は燕が巣を作った時点「西棟南側階段の2~3階踊り場にある窓のうち, 校舎内側から見て一番左側の窓」「燕の窓」などという名前が付けられるのです。逆に, 名前がついているからには燕が巣を作っていなければなりません。さもなくばその名前はすぐに忘れ去られることでしょう。
学校建設現場で「B-5-12窓の作業をしているギリアムさんをちょっと呼んできてくれ」として使われた「B-5-12窓」という名前は, 建設作業が終わって作業員の位置を正確に把握する必要がなくなった瞬間に消えました。

だからアイデンティティを理解するためには, そこにどんな問題や目的が挟まっているのかを知らなければなりません。燕の正体を探っていきましょう。

責任が及ぶ範囲

西棟南側階段の窓を拭く担当のカルスくん。ただクラスの班分けの偶然でそこにいただけなのですが, 急に彼が担当している窓の外に燕が巣を作ったために「燕の窓ふき担当」と呼ばれるようになりました。そう呼ぶことで分かりやすくなるからです。
カルスくんは「燕の窓ふき担当」であることを意識してより気を付けて掃除をします。「僕が燕の窓ふき担当だ」という自覚を持つわけです。先ほど辞書を引いたときに「独自性」という言葉が出てきましたが, それを認識します。

さて, ここで問題。しばらくすると*東*棟南側階段の窓にも燕が巣を作ったようです。
このときカルスくんは西棟南側階段のほか東棟南側階段の掃除もしなければならないでしょうか

しなくていい? なんで? 彼が「燕の窓ふき担当」なんだよ?

これこそが「アイデンティティ」の問題です。そしてそれが「個性」とは別物であるという説明です。
カルスくんの担当とはいったい何なのか。ほかの担当とどう区別するのか。どういうときにカルス君は「その窓を拭くのはほかならぬ自分だ」と確信できるのか。

カルスくん掃除担当問題の判決

そもそもカルスくんが最初に引き受けたのは「西棟南側階段の窓を拭く担当」だったのです。これこそがアイデンティティ。そこにたまたま「燕の巣ができた窓を拭いている担当」という個性がくっついただけなのです。燕の巣はアイデンティティではありません。
ですからカルスくんは, 燕が気まぐれになわばりを広げていっても法外な仕事を背負う必要はありません。

もしもその学校が燕に何度も何度も逃げられて, 次こそは絶対に怖がらせないようにしようと熟慮を重ねた結果, 丁寧な仕事が評判のカルスくんに「燕の巣ができた窓を拭く担当」を任せたとすれば, それがカルスくんのアイデンティティになります(正確にはカルスくんが引き受けた担当のアイデンティティ)
その場合は燕の巣がない時期はカルスくんは掃除をしなくてよくなりますし, 燕がたくさん集まってきたら掃除時間に校舎を縦横無尽に奔走しなければならなくなるでしょう。

つまり掃除担当に例えると, アイデンティティとは「責任が及ぶ範囲」なのです。

責任転嫁の果てに

先ほどは掃除担当に例えましたが, これは人間のアイデンティティでも同じです。人間は掃除担当よりもはるかに複雑なので, いろいろ意味が拡張されますけどね。
でも, 責任という観点ならわかりやすくなったと思いませんか? 責任を負うというのは普通はやりたくないことです。それでも責任を負おうとするのはそこに自分自身がかかわっていたという認識が本人にあるからです。だからアイデンティティを規定するには責任が便利なのです。

例えば何か悪いことが起きて「あなたのせいだ!」と言われたとき, すぐに認めず冷静にその原因をさかのぼった結果最終的に「自分のせいだ」と納得できればそれが「あなたのアイデンティティ」と言えます。
周りの意見に流されてはいけません。あなた自身の気持ちが重要です。そう, 実は人間のアイデンティティとは気持ちの問題なのです。なぜなら掃除担当と違って明確な定義がないからです。

アイデンティティの決まり方の例

カルスくんは掃除の時間にうっかり雑巾を窓から落としてしまいました。この原因をさかのぼっていきましょう。
まず直接的な原因は彼自身が失敗してしまったということですね。これは疑いようがなくカルスくんのせいですか? もし本人が心から思うのなら, 彼は「自分が直接引き起こした現象には責任を持とうとする」という評価になるので「カルスくんが直接引き起こした現象は紛れもなくカルスくん自身を表しており, ほかの何者でもない」とアイデンティティの一面を規定できます。
そういうカルスくんなら逆に, 毎日の窓ふきの丁寧さが先生からの高評価につながったとしても周りの嫉妬を知らんぷりしていいことになります。「これまでの生育環境が良かったからそういう仕事ができているんだ親に感謝すべき」とか「掃除中に燕が見られてやる気が出るからずるい, 誰だって燕の窓ふき担当になれば内申上がるよ!」などと言われても全く関係ありません丁寧な窓ふきは紛れもなく彼が直接引き起こした現象ですからカルスくんは胸を張って先生の評価を受け取っていいです。

しかし「自分が直接引き起こした現象」にではまだ納得できない人もいます。そういう場合は原因をさかのぼります。
例えば先ほど少しふれました「カルスくんの生育環境」。もしカルスくんの親が体が資本という考えを強く持っていて, カルスくんを大いに外で遊ばせ体幹を鍛え優れたバランス感覚を身につけさせていたら雑巾を落とすこともなかったのでしょう。そうしなかったカルスくんの親が悪いですか? 反対する人も多いかと思いますが, これも一つの理の通った考え方です。
はたまたカルスくん自身が子供のころから「運動したい」と両親を説得してこなかったのが原因でしょうか? だとしたらカルスくんは「自分に選択権があった事柄については責任を取る」という評価になり, 「カルスくんが下した選択はまぎれもなくカルスくん自身を表しており, ほかの何者でもない」というアイデンティティを獲得できます。
そういうカルスくんなら逆に褒められたとき, 「教師たちからの期待に応えようとして頑張れただけだろ」とか「燕の窓ふき担当とか言われていい気になりやがって」などと言われる筋合いはありません。どんな環境を与えられたとしても掃除を一生懸命やるのかサボるのかはまぎれもなく彼の選択なので, きれいな窓のふき方を教えてくれた先生たちには感謝しつつ, 醜い嫉妬は切って落としてしまいましょう。

しかし「自分に選択権があった事柄」にでもまだ納得できない人もいます。例えば先ほど少しふれました「期待に応えようとして」。もしもカルスくんに「階段の窓ふきは難しいから。雑巾を落とさないようにしっかり工夫してやるんだよ」と注意喚起, それが実行できるという期待がカルスくんに向けられていたとしたら, カルス君は雑巾のひもを手首に巻き付けるなどして雑巾を落とす事故を防げたかもしれません。そうしなかった先生たちが悪いですか? 反対する人も多いかと思いますがこれも一つの理の通った考え方です。

……と実はこれはいくらでも責任転嫁ができます

人間のアイデンティティはどういうものが考えられるか

上記のアイデンティティの決まり方の例で2つほどアイデンティティの例を提示しましたが, ほかにもいろいろあると思います。私は心理学を専門としていないので, 今まで見聞きしてきたものを辻褄が合うようにまとめているだけですが, 以下のようなものがあるのではないでしょうか。

  • すごく高いを持っている?
    • 自分が関与することで好転する可能性があるなら責任を持つ
    • 自分が関与すると宣言したなら責任を持つ
    • 自分が関与すると宣言したならその結果について責任を持つ
  • 自分が起こしたことには責任を持ちたい?
    • 自分の存在によって直接影響されることなら責任を持つ
    • 自分の行動によって直接影響されることなら責任を持つ
  • 自分の意思に責任を持ちたい?
    • 自分に選択権があったときはその結果について責任を持つ
    • 自分が選択権を認識していたならその結果について責任を持つ
    • 自分に選択権が明確に提示されたときはその結果について責任を持つ
  • 自分の生み出したものに責任を持ちたい?
    • 自分の作品が直接及ぼした影響に関しては責任を持つ
    • 自分の作品が意図通り使用されたならその影響に関して責任を持つ
  • 自分自身を構成しているものには責任を持ちたい?
    • 自分の境遇や運も含めて自分の人生はすべて自分の責任である
    • 今の自分の容姿や性格についてはすべて自分の責任である
    • 科学的な観点において「個人の資質」に分類されるような容姿や性格についてはすべて自分の責任である
    • 後天的に変えられる可能性がある容姿や性格についてはすべて自分の責任である

多分まだまだいっぱいある気がします。アイデンティティの作り方, 思いついたら教えてください。

中には「神か!? 英雄か!? 王か!?」というような責任の取り方をしているものが上のリストにありますが, つまり責任の取り方でその人のすごさが分かるということでもあります。なんですか「自分が関与することで好転する可能性があるなら責任を持つ」って。こんなのかっこよすぎるでしょ, おとぎ話のヒーローでしょ。自分で書いていて夢見すぎだなと思います。その1つ下ですらかなりヤバいのですけど。

自分のありようは自分で決める

遺伝子で人を識別するわけ

さてチャーリーさんの話に戻りますが, 彼の記事では個人の能力を「遺伝か環境か」の二元論として語っていました。なぜかというと分析が楽だからです。
遺伝というのはつまり, 生まれた瞬間に決まってあとから変わらないということです。逆に環境というのは外から影響されることで生まれたあとから変わるということです。ナスは調理次第でいろんな味や食感に仕立てることはできますが, どう頑張ってもトマトのようなさわやかな果汁を再現できません。このナスかトマトかというのが遺伝で, 調理が環境というわけです。

だとしたら, 個人を識別するのは調理方法ではなくナスかトマトかであるべき。ナスであるというのがあなたのアイデンティティですと。
あなたが赤く華々しい色合いにならないのは調理のせいではなくあなたがナスだから, つまり環境のせいではなく遺伝子のせいだというのが「不都合な真実」というわけですね。自分の嫌いな自分自身を周りのせいにできないのですから。

環境閾値説という言葉もありましたね。すごく大雑把に言えば, 調理の工夫次第でナスもトマトと同じ料理でおいしくいただけますということです。トマトスパゲッティが人気だからスパゲッティを作りたいのに自分がナスだから? いえいえ, ナスのスパゲッティも作ってみればおいしいですよと。
ただ, 同じスパゲッティを作るのにもナスに施す調理とトマトに施す調理に差があります。人間の場合は特に自分がナスかトマトかが分からないのだからいろんな調理を手探りで試してみなさいと。それが「刺激を与え続ける」ということのようです。

本人にとって遺伝も環境も関係ない

私が思うに遺伝か環境かというのは神様の視点, もう少し落として親の視点なのです。「隣の家の子はもう自転車に乗っているのにうちの子は興味すら示さずすぐに家に入っちゃうの」という親御さんに「焦らなくても普通のことですよ。あなたのお子さんはゆっくり教えていけばいいし, それでいいのですよ」というアドバイスを後押しするのが環境閾値説です。劣等感を持つ必要なんてないですと。

しかし, 本人にとっては関係ないと思いませんか? 親御さんが必死に付き添って教えてくれたのだとしても「自分が自転車に乗れる」という能力はもうあなたのものなのです。
そして大人になったら「自動二輪に乗りたいかどうか」「乗るためにどれだけのコストを払うか」これも含めて本人が決定権を持つようになります。自動二輪に乗るための運動センスの源:自転車に乗れるということはもはや遺伝ともいえるし環境ともいえるということはもちろん, どれだけ自動二輪に乗りたいと思うかはもっと複雑に彼の人生経験が影響を持つのでしょう。自分の力でうまくいかないなと思ったら能動的に環境を変えることすらできますから, この時点で環境を変えることすらも能力のうち, すなわち遺伝と環境を区別する必要がなくなってしまうのです。

辛辣な言葉を使うといつまで幼児の気分でいるんだという話です。「親が●●と言ったから」とか努力とか認知改善とかいう言葉が出てくるような相手にする話じゃないということです。
だって悔しいじゃないですか, 自分の人生が遺伝なんかで, 環境なんかで決められてしまっているというのが。そう思われてしまうというのが。自分の人生には自分で責任を負いたくないですか?
ですから私は自分のアイデンティティを遺伝子に求めません。そもそも「遺伝」という言葉自体にも親から受け継いでいるというニュアンスがありますから, 要は他人事に聞こえるのです。

まとめ

とはいえ, 先の言葉はあくまでも私だけの願望です。自分一人で背負うには人生は重過ぎるという人もいておかしくありません。そういう人にとって遺伝だ環境だという議論は意味のあるものかもしれません。

あなたはいかがです? あなたとはいったい何ですか? その身に宿す遺伝子があなたですか? その身が呼び寄せる環境があなたですか? その身が体得した技術があなたですか? その身で感じ考えたことがあなたですか? その身が残した功績があなたですか? その身が選びとる未来があなたですか?
ぜひとも胸を張れるようにアイデンティティを選び取っていきましょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました