真と偽

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真実はいつもひとつ! そんなわけない!

自然科学系第2弾です。前回は「命題」について話しました。次は「真偽」がタイトルです。
前回の復習をしておきますね。あくまでも私の意見として以下のように結論付けました。

命題とは, 十分に条件を与えたときにその真偽のうちいずれか一方だけが認められるような言明のことである。

この「真偽」という部分。これが今回の主役です。

この記事がもたらすもの

  • 真偽とは何かを知ることができます
  • 思い込みを脱却するため, あるいは脱却させてあげるための方法について考察できます

導入

問題提起

彼を説得するための第一歩を踏み出した私。それは彼を理解する旅の第一歩でした。

彼の考えを知るたびに思うのが「それって間違っているんじゃないの」という疑念。ほら, 常識的に考えて。

でも, 常識的に考えるって何でしょう。私にとっての常識は彼の非常識。そのすれ違いを正すのがこの旅ですから常識に頼ることはできません。だとしたら, 何をすれば「彼の考えが間違っている」ということができるのでしょうか。そんな時ふと思いました。

「そんな風にやっつけてやろうと考えているから彼は心を開いてくれないのではないか」

そう, 彼は元来私の味方なのです。私の味方になってくれるはずの人なのです。だったら私は彼を味方として迎え入れなければならない。そうでしょう?

そう, 彼を説得するための第一歩は「彼の考えは間違っていない」と認めることなのでした。

一般的な定義

真と偽をWikipediaで調べると「真」だけがヒットして, 「偽」は「命題」にリダイレクトされるようです。

旧字体、しん、まこと、さな、ぴ)

真理:一般に、特に哲学における「真」。誤りなく本当であること。論理的真理論理学における真理。
真理値数理論理学において命題が正しい(真)か誤り(偽)か、あるいは多値論理においてはそれ以外の状態をも扱う概念。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F

ええ, 当たり前ですね。あまりにも当たり前すぎて困ってしまいます。別の説明も見てみましょうか。コトバンクさんからデジタル大辞泉の引用です。

しん【真】

 うそや偽りでないこと。にせものでないこと。本当。真実。ほんもの。「真の芸術」「真の勇気」
 まじりけがないこと。本来の意味どおりであること。「真の紅」「真の正方形
 道理として正しいこと。真理。「真を究める」
 まじめなこと。真剣なこと。また、そのさま。「真になって相談にのる」
論理学で、ある命題が事実と一致すること。また、そのさま。⇔。「逆もまた真なり」
 「楷書」に同じ。「真、行、草」
 (「心」とも書く)
㋐華道で、構成の中心となる枝。役枝やくえだ
㋑「真打しんうち」の略。
[類語]本当真実真個真正正真しょうしん正真正銘まこと

https://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F-4672#goog_rewarded

「ある命題が事実と一致すること」とありまして, これが一番妥当な解釈ではないかと私は考えます。

しばしばこの手の言葉を攻撃的に使う人というか企業や国もいますけど「真実」だの「正義」だのは関係ないのです。ただ淡々と「事実」と比較すればいいのです。

事実と比較する方法

事実とは何か

さて問題。例えばあなたが夜空を見上げた時, 点滅しながら高速飛行する謎の物体を目撃したとしましょう。

この時「UFOがいた」は事実なのでしょうか?

え? 見間違いかもしれない? でもあなたは確かに見たのですよ?
仮に自分が見たものを信用することができないならば大変です。それはあなたの目が「事実を発見する」という機能を認められず「事実を追認する」ことに終始しなければならなくなるからです。今まで知っている枠組みでしか世界をとらえることができず, あなたは誰かの言いなりになったり自分の殻に閉じこもるしかなくなったりしてしまいます。

事実かどうかを確認する方法

まあ, それでも不安になりますよね。古の哲学者ルネ・デカルトもそう思っていました。そんな時あなたはどうしますか?
例えばそうですね。

  • すぐ近くにいる友達を呼んでくる
  • 動画を撮る
  • ネットで検索して同じような目撃談がないか探す

ということはするのではありませんか?
実際それらはUFOがいたということを事実として確かめるために有効です。共通点は分かりますか?

それは「他者と意見を合わせる」ということです。
「動画を撮る」というのが少し特殊ですが, 動画をほかの人に見せるということを考えなかったとしても「カメラという他者」からもUFOを認識されていたかを確かめることができます。

思い込みと事実の違い

この世界に存在するのが私一人なら別に事実かどうかなんて関係ないのです。日記の1ページにUFOを見たという経験と, 様々な期待や不安を書き綴ることを邪魔することは誰にも許されません。

それでも事実かどうかを確認したくなるのは紛れもなく「相手」と話をしたいからです。そして「私」と「相手」が同じ現象を認識したとき, それは私たちにとっての事実になります。

あ, ちなみにそれが世間一般にとっての事実になるかどうか私たち集団としての信用が大切になってきますね?
例えば新興宗教の狂信者たちの中で「昨晩東京郊外の上空を飛行していた物体には神の使いが乗っており, 私たち人間の悪事を警告しに来ていた」ということが事実だったとしても, あなたは驚かないし今後もいつも通り生活しますよね?
一方防衛省の中で「昨晩東京郊外の上空を飛行していた物体は地球由来のものではなく, 意思を持った未確認知的生命体が人間に交信を図っている」ということが事実だったら少しは現在の生活の激変を予感するのではありませんか?

そう, 事実というのは「絶対的な歴史や真実」ではなく「集団の中で共通に認められた出来事や法則」のことです。だから集団を作って「こういうことがあったよね? あなたも認めてもらえる?」ということをやろうとしますし, それが成功した時点で思い込みは事実に昇華するのです。

論理的な話を始めるために

真偽というものの正体

「事実」が「集団の中で共通に認められた出来事や法則」であるとするならば。

「ある命題が事実と一致すること」という「真」
「ある命題が事実と一致しないこと」という「偽」

この話をし始めるためには「これは正しいよね? あなたも認めてもらえる?」ということを打ち合わせておかなければならないのです。
そうしてできた2人の共通認識で事実として認められたことを「真」といい, 事実に反すると認められたことを「偽」と呼ぶわけです。
あ, ちなみに「わかんないねー」は真でも偽でもありません。あれです。前回命題の記事で触れた「前提条件が不足していて真偽が確定しない」というやつです。

まずは自分が歩み寄る

相手が明らかにおかしいことを言っていたとしましょう。そしてその人は多分あなたとちゃんと話をしてくれる聡明な人だったとします。

そのときあなたが最初にすべきことは「おかしいこと」をいう相手に対して「それが正しいことにしてお話しましょう」と歩み寄ることです。これが先ほどの打ち合わせにあたります。彼の考えを変えることができるかどうかなんて後々のあなたの努力次第で, まず最初に認めてあげなければ会話にならないのです。

ミイラ取りがミイラになってどうするか?
心配ありません。あなたは一度「常識」という自分の家を離れて友達の家へ遊びに行ったに過ぎません。あなたの家が壊れるわけではありません。彼の話を終えればすぐに安心のマイホームに戻っていいのです。もしも彼の家で何かを学んで模様替えしようかなと思ったら, 思いがけずもっと素敵な生活が待っているかもしれないじゃないですか。

まとめ

お話がすっごくゆっくり進んでいる自覚はあります。何しろ前回の結論が

彼の話を「それは命題だ。大切な話だ。」と認めてあげなければなりません。

ということだったのに対して今回の結論が

彼の考えを変えることができるかどうかなんて後々のあなたの努力次第で, まず最初に認めてあげなければ会話にならないのです。

会話しよう! としか言っていないじゃん!

はい, そうなのです。論理学とは, 学問とはただ自分の中で完結する「自己満足」であってはならないのです。最終的に広く共有されるものでなければならないのです。人々の会話の中に息づくものでなければならないのです。
だから2回に渡って言い続けたこの部分がとても大切なことなのです。

私も会話を望んでいます。よろしければあなたの話を聞かせてください。一緒に学問を楽しもうではありませんか。

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